0122-0124
友人に会う。
そう思い立って、ソウル行きの旅券を取ったの。あれは、渡航4日前の深夜のことだったわね。どうせなら、最も寒い時に行きたいと思ったので。やっぱりマゾかしら。
友人とはお互いの連絡先さえ知らないのに、旅券を取っているときには、向こうで再会しているイメージが明確に有ったの。
ので、結果、こちらから誘うことも、向こうから誘われることもせず、ソウルでの再会が決まったのです。どういうことかしら?不思議ですね。
聞くと、会う前日まで、住まいの仁川から更に二時間ほどかかる海辺にいたそう。
大寒波と大雪が到来したので、滞在の予定を変更して慌てて引き上げてきた。ところに、わたしが来ていたというわけ。

情と親切が凄い。
曰く教育、徴兵制、儒教などの文化的背景から、「みんなと同じであること」が日本以上に美徳とされる韓国の中で、ただひとり、ひたすらに逸脱を続けている我が友。
挨拶もそこそこに、予知夢の話題に変わる。あ、という間に、時間が過ぎてゆく。
前置きも無しにこういう話ができる者同士のことをわたしは密かに、同じ言語を話す者、と呼んでいるわ。
そうね。例えば、このようなシチュエーションを思い浮かべてみて。
貴方は今朝、可愛い犬に出会いました。
その犬の名前が「ポメ太郎」というものだから、あんまり可愛くてくすっとしてしまい、うれしくなって貴方はそれを友だちに話すことにしました。
しかし、どうでしょう。
「今朝、ここに来る前に可愛い犬に出会ったんだけどね、その犬の名前が、」
…と、話し始めた瞬間、一言。
「いやいや、ちょっと待って。
犬って存在しているの?」
そして友だちは、こう続けます。
「俺、犬なんて見たことないから、信じてないんだよね。
この世には猫しか存在していないと思う。
犬見たって言うのも、君の勘違いじゃない?」
そして議題は犬が存在しているか否かということになってしまい、いつまで経っても、ポメ太郎に辿り着くことができないのです。なんだか、とてもさみしいですね。
このような望まれない会話を避けるために、わたしはしばしば翻訳を使うのです。
相手が信じていない犬という存在を、相手が知っている猫という存在に置き換えて話したりするの。
それは文字通りの意味での「翻訳」、つまり母語から外国語だとか、よりも遥かに大変で、遥かに、かなしい作業なのよ。
だから、それをする必要のない相手というのは、母語を話す以上に母語を話す者同士のような感覚であり、話は尽きなくなるのです。
というわけで、一番の目的を果たしたので、日本に帰ってきました。
初日に出会ったヴィーガンカフェの女神の微笑み然り、なんとまあ親切な人ばかりで。
感謝いっぱいの旅でございました。

時計は室内に無く、窓の外の教会にある。



こぼれ話で聞いたのだけれど、韓国には古くからの言い伝えで「巫女(무당)か芸能者か」という言葉があるんですって。
これは、シャーマニックな力と、芸能者になる力は根源的には同じであり、巫女の道に進む人間と芸能の道に進む人間は紙一重という意味なのよ。
ここでいう「芸能」が古から存在していたものを指すのだとすれば、わたし、とても腑に落ちる言葉だと思うわ。
音楽や舞台において、異様な迄に惹きつけられたり、「場」を掌握する力に長けている人には、何か超自然的な力や、霊的な魅力を感じるもの。
そう。あなたのことよ。
それじゃ、またね。ごきげんよう!