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宗教観について

わたしがことにふれて神を用いるので、宗教観について質問されたり、また誤解を受けたりすることがあるようです。

今まであえて触れなかったのですが、この機会に答えておこうと思います。

結論から申し上げると、わたしは、たぶん、特定の宗教を信仰していません。

身内も特定の宗教には属していないため、特定のドグマを教え込まれたこともありません。

そもそもわたしは、とても信心深くとても優しい友人に

「お前は悪魔憑きだ!このアバズレ!」

と激昂される程度には、既存の宗教というものと相性が悪い女なのです。

わたしは、たぶん、特定の宗教を信仰していません。

さて。

たぶん、とはどういうことか?

わたしは、心情に輪郭を持たせるために、或いは内なる神聖と触れ合うために、或いはもっと儀式的な形で、宗教、神話、哲学、物理学、形而上学等のあらゆる神や女神の力を信じたり、力を借りたり、記述を引用したりすることがあります。

古今東西の神と呼ばれるものは、それらすべてひとつのもの――人間に備わっている海のような場所から噴出するもの――であるという考えに、わたしは深く同意するからです。

そして神とは、それらが根源から此方へ噴出する時に、特定のシンボルを纏って現れる、或いは、纏わせて現すものだと、わたしは思っています。

つまり宗教とは本来、在ること、と同義であるとわたしは考えます。

その意味では、わたしには信仰があるとも言える。わたしには宗教があるとも言える。

しかし、わたしの信仰しているものは進行しているものでもあり、他に教祖は見当たりません。

すると、もしかしてわたしは宗教家であり教祖なのかもしれない。

ただその場合、わたしは、わたし以外に信者を持たない宗教家ないし教祖であることを、ここに明言しておきます。

こんなことをわざわざ明言する理由は、記事の後半を読めば、朧げに分かる仕組みになっています。


特定の宗教を信仰している方が、わたしと関わりを持って、信仰している宗教から脱したくなる、みたいな現象が結構あるみたいです。

例えば、ある人からは

「貴方を見ていて神に疑いを持ったので、経典は捨てたわ」

と報告を受けたこともあります。どうか、どうか死刑になりませんように。

勿論、相手との会話の中で相手の宗教観を否定したり指摘したり、諭したりしたことはありません。

友人だけでなく、たまたまカフェのテーブルで隣になった方や、間違い電話をかけてきた方などにも、そういったことが起こりました。

ここに、具体的な例をひとつ挙げます。

わたしには、心優しく信心深いクリスチャンの友人がいました。

仲良くなって数週間目のある日。

わたしがいくつかの自己開示をしたところ、その方は激昂しました。

「そんな考えを持っているお前は悪魔憑きだ!
アバズレ、売女、サイコ女!
殺されたいなら今ここで殺してやろうか!」

云々。おお、まことに信心深い。

帰宅してからも、メッセージと電話は鳴り止みませんでした。

わたしはそれらに言い返すことはせず、ただ、それを眺めていました。

それが一週間ほど続いたある日、今度は怒涛の謝罪文が押し寄せてきました。

「私は間違っていた。私は苦しい。
貴女を見ていたら、自分の信仰してきたものが壊されるようで怖かった。
私はクリスチャンを辞めることにした。」

(怖い気持ちは、わたしもよく分かります)

そして、その方はこう続けました。

「私には神がいなくなってしまったので、
これからは貴女が教祖になって欲しい。」

わたしは、ここでやっと、お返事をしました。

「お断りします。
貴方はどうか自分を信じてください。
わたしにできる”教え”はこれだけです。」


「宗教をやめるので教祖になってくれ」

と言われた経験は過去に複数回あるので、やっぱりわたしは、既存の宗教とかなり相性が悪い人間なのだと思います。

と、同時に、こうも思うの。

わたしが、とある方の生命活動を目の当たりにしたことで命まるごと解放されたのと同様に、もしかするとわたしにも、人を解放する何らかの要素があるのかもしれない。

しかし、わたしには誰かを導きたいという願望が、いまのところ一切ない。

一方的な崇拝などは、どちらかというと、されたくない行為のひとつに入る。

これは、遠い遠い過去の自分――とある女性に、内なる神聖を、未だそれとは知らず投影し続け、見事に瓦解し、人生に絶望し、浮世に神が居ないならば最早己に残された道は”どこかのほんとの神” に仕える修道女になることしかないのではないか、と、三日ほど真剣に悩んだ幼い頃の自分の、押し付けがましい身勝手さ――を見ているようで、強烈に虫の居どころが悪くなるのだとおもう。

こういう場合、”信者” は得てして、ほとんど無意識的に、稀に意識的に、”相手そのもの” を見ようとも愛そうともしていないことをわたしが一番よく分かっているのです。

(断片より「かいばみ」は、つまりアイロニーなのです)

なので、崇拝されるのは嫌い。というか、困る。誰かを崇拝するという行為も、できればもう二度としたくないことの一つです。

(ああ、でも、その神聖が己の内側に在るものだと自覚した上で、投影しあうことで互いの輪郭をなぞり交わる行為は、わたしすきよ。だいすき。)

わたしの生命活動によって、わたしのみならず他者までもが、何かから解放されてゆくのは、本当に喜ばしい。

ですが、わたしに誰かを導くことへの意欲はありません。これは元々の性質なのかしら、それとも、女性性とか男性性に関係するものなのかしら。それとも、この先そういうことへの意欲が芽生えるのかしら?

いずれにせよいまのわたしは、

わたしはわたしの好きに生きているので、貴方も好きに解放されてくださいね

って感じです。

あら?もしかして、あの人もそんな感覚なのかしら。そのへん、知りたい。教えてください。

じゃあ、またね。